「科学者はなぜ神を信じるのか」読了。心の拠り所としての宗教

「科学者はなぜ神を信じるのか」を読んだ結果を思ったのは、物理法則は神によって作られたと捉えることで、神の存在は(真理の探求を目的とする)科学とが矛盾なく両立しうるという主張はわかったのだが、 それは究極的には両立する方法はあるんだろうが、 短期的に見た時に、心の拠り所としての(間違いをはらみうる)宗教が、正しくなくてはならない科学が両立するのかについての答えは無くちょっと期待はずれだなと思ってしまった。

ガリレオ裁判

「科学者はなぜ神を信じるのか」を読んで一番印象的だったのは、ガリレオ裁判が大きな権威と化したカトリックキリスト教からの圧力だったというところ。

今まで根拠もなくガリレオの地動説は民意に反していて、大勢からヘイトを買ったかのように思っていたが、当時の人々の思想のレベルではそのようなこと(世界はどうあるべきか)を考えてすらいなかったいなかったのだろう。改めて考えれば当たり前のことだ。

第五回ソルベイ会議、ラウンジにて。

第五回ソルベイ会議は量子力学の学会だが、そうそうたるメンバーが集結している。 アインシュタインプランク、ボーア、ドブロイ、シュレーディンガーハイゼンベルク、パウリ。 その学会のラウンジでなされた科学と神についての会話が「科学者はなぜ神を信じるのか」に収められている。 様々に議論されているが、正直追いきれない。 唯一当時の歳が近いディラックは、わかりやすい話をしてくれている。彼は、強烈な無神論者であることがわかる。

信仰と信念

神様の存在を確かめたわけではない一方で、今使っている科学の知見も原著論文を自分で確かめたわけではない。 そのうえで科学を重視するのは信仰と変わらないのでは? →信仰と信念は違う。科学は信念を持って正しいと思っているが、間違っていたならそれを(なぜ間違っていたのか、なぜ今まで正しいと思っていたのか精査した上で)受け入れる準備がある。しかし、信仰はそういった類のものではない。

だんだん立ち直りマテリアルが増えてきて笑う。なぜ頑張るのかという問いは壮大すぎて立ち向かうべきではないなと思った。

(2019/5/8)


またしてもgloomy。今は直りましたけど。gloomyになったときの対処法。休憩時間が有限か無限か。そんなことを考えていた。

(2019/4/24)


もうひとつ。やっぱりいい加減な人がたくさん論文を出しているという部分はあるんだと思う。そこを改めてしってちゃんとした研究をしようというのがいつもの立ち直りどころだな。


最終的にうまく言った人のブログは謙遜20%リアルな自認80%くらいで、自分の能力が大したことなかったというようなことを書くけどそれは変な勘違いのもとなので辞めていただきたい。


久々に随分グルーミー(depressの代わりにgloomyという言葉を使うようになった)になってしまった。意味もなく巡っていた思考には当然意味がないんですが、あとから読み返すと面白いかもしれないのでとりあえず吐き出してみます。なんでグルーミーになったか、きっかけは1週間前の月曜日にあった統計的学習理論の授業だった気がする。それなりに授業は好きで積極的に取り組んでいたつもりなのだが、同じグループでこの授業を受講している一つ下の学年の博士学生の方が明らかに内容を理解していることが質問の内容から伝わってくる。直視するのを避けていた現実に向き合わされるきっかけだった。自分は他の分野から来た人間なのでこの分野の理解度で言うと下の下なのだ。もちろん応用よりの研究よりは自分の好きなことを追い求められていると思っている。ただ、自分が選んだとか、いろんなものを経た選択とか、自分を特別視するへんてこな理由は山ほどあれど、自分は知識もノウハウもない碌々たる学生の一人でしかないことのほうが紛れもない事実なんだ。そんな中、期末プレゼンがあり、PhDのqualificationがあり。こんな自分が自分なりにでも道を見つけられる気すらしなくなったので、すべてを投げ出す流れになった。その前まで随分具合がよく、調子の良い思考をしていたことも反動になった。「今はとりあえず勉強で良いかなって思ってるし。もしかしたら首になるかもしれないけど、あはは。」オフィスの隣の同僚に向かって口にしていたこんな軽々しいセリフは、首になることをもうすこしだけリアルに想像したときに自分にじわじわ効いてきた。私は首が怖いし今までのキャリア(笑)が消えてなくなるのが怖い。消えてなくなったときのために準備する過程で、自分に実は何もないことを直視するのも怖い。

焦らなくていい。毎日やること。(ガクトさん)

今日できることをやっていくこと。(田崎さん)

こんなに成功した人がこんなことを言ってるんだからこのグルーミーさは普遍的な問題なんだろうなというのがちょっとだけ救いになる。でも普遍性を盾にしている自分も情けない。父親もルームメイトも彼女もみんな味方をしてくれる。こんなに恵まれているのに負け続けている(あるいは戦うことすらもしない)自分がどうしようもなさすぎて、心底嫌になる。

(2019/4/08)


忘れないうちに書き留めておきたいこと。自分の差別意識について。僕は「自分に差別意識があるということを自覚してるから、無自覚に差別してる自称差別しない人よりずっと良い」というのが(中が自慢気味に携えてきた)持論なのだが、自分は全然無自覚の差別意識を持っているなという経験。付き合ったばかりの女の子が自分がバイセクシャルであるという話をしてきて、自分はいつものように「そっかそっか、俺は気にしないよ笑」という反応を返したのだが、その後の話題で

「おれ前の彼女もバイセクシャルだったんだよね」

バイセクシャルが好きなんだ!じゃあ!」

「そんなわけないでしょーが笑」

これは無自覚に性的マイノリティを下に見ている反応なんじゃないかとあとになって思った。

と書いていて更に思った。「別に性的嗜好で人を選ばないわ!」というごくまっとうな反応とも取れるし、そういう意図だったような気もする。

思考ってのはつくづくill-shapedだな。文章にしてみてよかった。


すぐ下の文章。内容は面白いけど文調が怒り狂っていて頭に入ってこないな。思うがままに書いたつもりだったが、怒っているときの自分はいつもこんなパーソナリティなんだろうか。

(2019/3/24)


「じゃあ本質的には○○好きなんじゃん?」という腹立たしい指摘がある。具体例から入ってみよう。僕は文章を読むのが好きです。理由はあんまりうまく言えないけど、特に最近の文章はきれいに整形されたウェブページにきれいなフォントで書かれていて読んでいて心地が良い。ここでこんなことを言う人が出てくる。

「つまり、本質的には文章が好きっていうよりデザインが好きなんでしょ。」

うるさいな。確かにフォントやらレイアウトみたいな部分を元に文章を読むのが好きって言ったけど、きれいなデザインの上に乗った「文章」が好きなんだ。なんでもかんでも「分解」「還元」するんじゃないよ。還元を否定するつもりはないが、お前の「分解」が絶対的に正しいと思うな。どうせ、滲んだフォントの紙の本で読むのと、きれいなweb site との両方で同じ文章を読ませて、きれいなweb siteで読んだほうが楽しいといったら「はい文章は関係ないですね」とか言うんだろ。デザインとコンテンツは相互に依存しているんだよ。分解できることを立証する実験をまずやりなさいな。変に怒っているがこれは自分の対して怒っている。本質は何か?なんていう本質的な問いをやすやすと問うでない。9割方文章は読んでなくても文章が好きなんだ私は。

(理解の助けになるかもしれない余談)初めてMacを買ったとき、当時持っていた重いWindowsのノートパソコンでは全くはかどらなかったプログラミングをしばらく続けることができた。でもあれはMacのデザインが好きだったわけではない。マックのシンプルなデザインによってクリアに発露したパソコンという概念が好きだったんだ。「Windowsでも同じことできるんだから、本質的にはデザインが好きなだけなんだよ」うるさい。学んだ側が記憶しやすい「分解」だけでものを語るな。


今後生きていく上でいろいろな概念を理解していくだろう。そうしてみると、今考えていることなど馬鹿馬鹿しいと思うようになるかもしれない。その証拠に今振り返ってみて、大学生の頃の行動はなかなかに馬鹿馬鹿しい。でもそれを書き留めておくことって大事だと思いました。なぜかというと、馬鹿馬鹿しいのは記憶の中での自分でしかないから。「進んだ」価値観を持った自分の色眼鏡で見た過去の自分。90%はほんとに稚拙なことをやっていたのかもしれないが、削ぎ落とされた残りの10%に本質的なことがあるのかもしれない。だから記憶だけではなく文章にもとどめておくことにする。記憶では削ぎ落とされた10%が文章には引っかかっていますように。

(2019/3/20)


 下の文章を読んでいると結城さんに影響を受けすぎていて笑ってしまう笑。まじめな優等生感が過ぎている。田崎さんの文章が好きでこのブログをはじめたものの色々あって文体が変わってきている。せっかく間も空いたことだし(狙ってやったかのようだが単に精神的に上向いていたというだけ)、文体はもとに戻して行きましょう。田崎さんつながりで、"from:Hal_Tasaki 精神"という検索をTwitterでかけてみたのだが、田崎さんのような一流の仕事をする人ですら精神の安定というのは重要な問題なんだというをことを確認できたので安心というか、今後の精神への向き合い方への勇気をもらった気がした。幸い自分は今やっている仕事が(下手の横)好きなのでそこを基軸にすることにためらいはない。ただ、人並みに(もしかしたら人並み以上に)セックスがしたいとか美味しいものが食べたいといった欲はあるので、そこともうまく付き合っていく必要がある。付き合っていくに当たって、知っておかなければいけない自分の性質として、「ごまかすのが嫌」とか「関係ない人にまで義憤を覚えやすい」というのがあって、それをちゃんと理解しないと、何もかも中途半端になってしまうと思う。関わるのが嫌な人はたくさんいる。精神的にしばらく引きずるレベルで嫌な人もいる。そういう人はブロックではなくミュートでいこう。好きな人と関わっていけば精神も和らぐだろう。

(2019/3/4)


自分はとにかく焦っている。すくなくともここ十数年はずっと焦っていた。なぜこの性格なのだろうと抽象的な思考を進めていくのもよいのだが、今日は具体的な事例を書き留めておくことにする。今セメスターの統計の授業の課題はもっぱらJuliaを使って書いている。そのときの例のごとく、とにかく焦っている。毎度のようにif文の書き方を忘れては検索し、書き慣れた言語で使えていたあんな機能こんな機能がないゆえにまた実装が止まる。そんなことを繰り返しているうちに時間はどんどん経っていき、書き慣れた言語であればものの数十分で終わったであろう課題に何時間もかけてしまっている。浪費したのが時間だけならまだいいのだが、その間に自尊心は傷つけられ、自分は如何に研究者に、コンピュータ・サイエンスに向いていないかをぐるぐると考えてしまう。このぐるぐるが正しいか正しくないかはわからないが、似たようなことが修士課程で初めてC++を書いたときにも起こっていた。(と記憶している。)あのときも自分を傷つけながらメチャクチャなパストレーシングのコードを書いていた。あのときの成果物はてんででたらめだったし、当時の摩耗も本物だったが、あの日の苦労には何度も感謝してきた覚えがある。コードが幸いきれいに書かれたコードだったというのもあるが、自分の力で、C++オブジェクト指向プログラミングを肌で感じられた瞬間だった。瞬間?別にそんな瞬間を実感などしていなかった。でも自分の中の学びの瞬間はあの時だった振り返ったとき思う。今日のJuliaもそんなものなのかもしれないし、精神をけずってること自体新しい概念に触れている証拠なのかもしれない。まあ結論はこうだ。そこそこ頑張って、もし精神削り過ぎたら時折のんきになっても良いよ。

(2019/2/7)


 

やり始めるまでが一番大変というのは本当にそうで、やる前はものすごいめんどくさ組みえることがちょっとでもやり始めるととたんにすいすいできてしまったりする。勤務時間外、休むことに全ふりしていたんですが、簡単なのでもいいからタスクをこなすのもいいかもしれない。

(2019/1/22)


先週、今週と授業に追われずに自分の研究にたくさん時間を割けたので、ちょっと思ったことを書いておきます。もしかしたら(あまり認めたくはないのだけど)、今まで ミーティングでなんとか成果をでっち上げようとするあまりてんで的外れな進め方をしてたんじゃないかという話。先週のMTGのあとに送られてきたメールでは「ある論文Aのように批判的な論文ってのはスタート地点としてすごくいいんだよ。例えば、論文Bの主張を否定できるような反例を見つけられたら論文になるよね」

ぼくはこのメールの意味全くわかっていなかった。なんとなく実装と理論の中間的な論文というMTGでの結果だけが頭に入っていて、ほんとにふわっと「実装も理論もどっちも入ってる」論文をサジェストしてくれたんだな〜と何となく思っていた。教授がやってくれていたことはもっと具体的でした。一週間でかけるべき時間の1/3も自分の研究に時間を割いていなかったばかりに(これに関しては怠慢と言われても仕方ないがどちらかというとタイムマネジメントのスキル不足だと思っている。わりとそこは先学期向上した。)、「一週間の進捗など10程度のものだ」ということに気づかず30くらいが期待されているかのように思って30に見せかけることにエネルギーを注いで、実質的には0.1程度の進捗しか出ていなかった。そんな感じ。正直にいって3の進捗を説明すれば良かったんだ。

今学期はやはりまだ授業にフォーカスを置くという点では同じだが、授業の結果はちゃんと割り切った上で少なくても着実な進捗を出していくという取り組み方をしていきたい。

(2019/1/16)


 

日本に帰ってバタバタと友人と会ったり雑務をこなしたりと、仕事以外のことが一段落しました。仕事に追われない一週間を過ごしたのが久しぶりだったので頭の中を普段考えていないことが巡っていたような気がします。今朝は乱択アルゴリズムの復習(先セメスター時間の都合上勉強できなかった部分)をしていたのですが、 時間がかかってちょっといらいら(および不安感)に苛まれますね。理論をゆっくり学んでいくということはこういうことだと思うので、気にせず行きましょう。正しいことを学ぶのは時間がかかるのです。

今後の勉強の指針

  • みんながやっていることは危険なので機械学習の応用からは少し距離を置く
  • 一方で、耳障りのいい社会学的な領域に深入りするのは控える。ある程度勉強はするけど。 

(2018/12/24)


Aさんは僕が想定している以上に僕のことを(異性として、もしくは人間として)受け付けないと思っているんだと思う。だからここであてつけなんかしようものなら、Aさんからしたら評価は地に落ちるだろうし、別に今さらAさんから良い評価をもらおうなんて思っていないが、その時にくだされる評価は、人として生きていけないくらいのものなんだろうなと思う。今後Aさんに関わらないのはAさんのため。その誠意をせめて受け取って欲しいけど、そこはゆっくり。。。苦しいけど。。。時間とともに自分の気持ちも和らいでいくでしょう。


一日ベッドから起き上がれない奴またやってしまった。悔しいけど、ちょっと頑張った過去があるとなんとか戻ってこれる自信に繋がる気がする。これが数週間から数ヶ月、数年となっていければどんなにいいか。何度も思っているがもりもり頑張ることよりも、継続が大事。

(2018/12/10) 


とはいっても、スキル不足を痛感しつつ今学期学んだことも多かったです。この歳になって今更何をやっているんだ、学ぶにしても遅すぎだ。というツッコミを自分で入れたいのはやまやまですが、それはしないことにして、成長したことについては全面的に肯定していいのかと思います。(楽観的なことを言えば別にこの年齢で遅すぎなんてことも杞憂なのかも知れないし。)

書き留めておくことの重要性

何をきっかけで始めたのかぼんやりしているのですが、今セメスタはー色んな事を文章にしてまとめることを豆にする習慣がついたセメスターでした。朝永振一郎先生や田崎晴明さんの文章を暇なとき眺めて楽しんでいて、その真似としてこのブロフを雑記形式にして、その後結城浩さんの仕事のスタイルを真似してTwitterで仕事の報告をするようにして、それがどうも具合が良かったから一人slackやらスライドにまとめるやらをやり始めたみたいな流れだった気がしている。アウトプットとして出してしまうと、考えてしたことが矮小化してしまったりするなどというかっこつけたことを抜かして、やったことをやったそばから忘れるような働き方をしていたのが今までだったのでこの習慣は身につけてよかったなと思っています。矮小化するどころはアウトプットとして出したものを足がかりにどんどん思考が深まり、広がっていく感じがして、これは知的生産を行う身としては絶対に抑えておくべき習慣だなと思いました。加えてどんな形であろうと脳の外部にアウトプットを残しておくことによって、複数の仕事を同時にやっていたとしても、前回やったところを思い出すという余計な労力がかからなくなる。また、あまり仕事の進みが良くなかったとしても何らかの形でその状態を書き残しておきさえすれば、必要な分だけの休息はとることができる。やれるだけのことをやって、無理に自分を責めない。十分に時間を投じて解決できない問題は、自分の力量に見合っていない過大な問題なので、自分が成長していつか取り組めるようになることを願って、いまの自分への負荷を下げてやることも大事でしょう。できない理由が怠惰さではないことを自覚するためにも、自分の仕事をしっかり管理して、自分の力量を把握した上で、努力を怠らないことは重要になってくるかと思いました。


乱択アルゴリズムの最終課題を昨日提出しました。終わってみて思うのは、途中で撤退したほうが良かったかなということでした。頑張れば単位は来るなんていうのは甘い考え方で、頑張りとは関係なく学ぶ準備が整っている人が十分な時間を投資して十分な成果を出して単位を得るというのが通常の流れなので、教授の優しい性格を過信したり、他の人が撤退していないのを見ながら呑気に構えていたのは(もしかしたら)間違った判断だったのかも知れない。少なくとも私は最終課題を自力で解けるだけの能力を今セメスター中につけることができなかったわけで。結果がどうなるかわからないですが(期待はゼロ)、いまの肌感覚としてはこんなことを思っています。


最近の居場所はこのブログかも知れないな。


まず失恋について。失恋って題するほど大したアプローチはしてないんですが、好きになった女の子に拒絶されました。ぼくは割と前からなんとなく気になっていて、(あとから勘違いだとわかったんですが)向こうもこっちに興味を持ってくれていると思っていて、ゆっくりアプローチをしていたんですが、割と初期の段階でアプローチ自体を断られてしまって、でもやっぱり合うたびに可愛いなと思ってしまっていて、どうにもこうにも踏ん切りがつかない状態が長らく続いて、その踏ん切りがつかない状態でその女の子に会うと踏ん切りがついていない精神状態が心に現れてしまって、無意識にアプローチをしてしまっていて(アプローチと言っても好意を抱いていない女の子より積極的に話すという程度だけど)、でもその無意識のちょっとしたアプローチも想定以上に拒絶されてしまって、そいでもってその子の友達から(いままでも幾度となく食らっていたけど)「どうせ叶わないんだからやめたら?」ということを暗に示すようなことを言われて、それはいつも本当にショックなんだけどなんでショックなのが言葉にできなくて。なんかきつい。自分にとっても相手にとっても最善なのは私が新しい居場所を見つけて楽しくやることだと思うので、そこを目指してゆっくり進んでいきます。


ちょっとまとめて、いろんなことをワーッと書きます。

(2018/12/8)


昨日、カリフォルニアに出張にきていた友人と一日カリフォルニア観光をしました。彼は僕が物理学科だった頃(学部時代ですね)の友達で、演劇に力を入れるあまり学業を疎かにして授業についていけず学部同期にも馴染めずというつらい時期に、僕と仲良くしてくれていた数少ない友達の一人でした。やるべきこともやっていないのに、試験をパスするためだけの浅はかな質問で彼の時間を浪費して、彼には自分の嫌な面をこれでもかというほどに見せつけてしまったという思い出しかないのですが、どんな時でも快く僕を迎え入れてくれた彼は数年経った今でも変わっていませんでした。彼は飛び抜けた天才だったり人一倍器用といったタイプではないのですが(もちろん僕と比べたら何倍も優秀ですが)、できることを地道にコツコツ続けてゆっくりと前に進んでいく姿勢はある種僕の憧れであったりします。いつもの悪い癖で、自分の話を怒涛のようにしてしまって、相手から吸収するべきことを逃してしまった気もするんですが、きっと楽しんでくれたと思うので(そもそも僕も初めてのUSHものすごく楽しかった)、今後も長期的に仲良くできそうだと思います。彼は物理学(宇宙系?)の博士号取得卒後は、コンサルタントシンクタンクのような仕事につくということでした。博士号取得者は研究者になるしかないだとか理系の道に進むしかないといった考えは、やはり僕の思い込みだったのかも知れませんね。今の研究を楽しめていることに感謝して、もう少し自信をもって博士課程を続けていける気がしました。

(2018/12/1)


大学院生までに勉強したことは40代頃には枯渇するというツイートがどうも頭に残っている。基本的に勉強が無駄になることはないという言説をモチベーションに今まで勉強をしてきた節があるので、やってきた勉強が枯渇するという感覚が新鮮だったのかもしれない。たしかに勉強は無駄になることはない。しかしそれは何度でも死ぬまで役に立つということではないのだ。とくに研究者のように自分が勉強したことフル活用するポジションにいるのなら尚更のこと。勉強してきたこと総動員しつつ、勉強し続けないとな。。。

 

しかしそう考えると今苦労して乱択アルゴリズムの勉強をしているのは悪くないのかもしれない。苦しくなるくらいの新しいことを学んでいこう。

(2018/11/28)


 

気づくとこのブログあまり更新していなかったですね。基本的に仕事のことはslackやTwitterに書いていて、それ以外の時間はぼーっと過ごしていることが多かったので仕事面以外で自分を省みるということをしてなかったのかも知れません。いや、無意識にはしてたんでしょうが、こうして文章に落としこむほど明瞭にはしてなかったんだと思います。先週はサンクスギビングのお休みがありまして、それとともに乱択アルゴリズムの課題も投下されておりまして。その課題の難しさ及び持て余した時間のせいか、久々鬱っぽくなってしまいました。ただ、仕事の進捗をちゃんと書き留めておいたのが良かったのか、ちょっと気合を入れたら元の生活に軌道修正できるような気がします。活動録(主に研究の方)の習慣は今後も続けていくのが良さそうですね。

ちょっと最近考えていること。物事を理解するとは、その対象を高い解像度で見れるようになること。その対象の様々な部分を捉える道具を持つことなのかなと思います。例えば、メンヘラという言葉は恋愛をしている女の子を捉える上で非常に解像度の低い言葉です。多少わがままだったり、恋愛において相手に依存してしまうことなんて誰にだってあることです。それが過剰になって、自分以外の女性と連絡をとった瞬間怒り狂うような女の子とはなかなか恋愛がしづらいのは確かでしょうが、そのレベルからささいなわがまままで十把一絡げまとめてしまうメンヘラという言葉は、解像度の低い粗い言葉と言えると思います。このような言葉を使うのは楽でいい代わりに、深く理解しているとは言えないのです。例が長くなりましたが、ちょっと今回の鬱っぽい状態から思うこと。「鬱っぽい」と「正常」。この2つの言葉だけで自分のメンタルのコンディションを捉えるのは同様に解像度が低いんじゃないかなと思っています。ここで言う「正常」とはバリバリ努力をして仕事に勤しんでいる状態。「鬱っぽい」とは昨日までのように、何にもやる気が出ず寝込んでしまっている状態です。少なくとも今この瞬間に思うのは、正常の中にもぼちぼち働くのとバリバリ働くの2つがある。うつ状態からバリバリ働くのに行くにはかなり腰が重いですが、ぼちぼち働くくらいならできそう。ぼちぼち働くよりもうちょっとハードルを下げて夕方少しだけ働くというのもある。(なんなら水曜日はそれだった。)こんな感じで自分と仕事の関係への理解を深めれば、ちょっとしたわがままをメンヘラと揶揄するような、仕事中のちょっとしたやる気の低下を鬱ときめつけるような、荒っぽい論理で自己嫌悪に陥ることも減るのではないかと思います。

とりあえずやれるだけゆるゆると。

(2018/11/26)


現在コースプロジェクトとして行っている研究が修士一年の時にやった研究分野(HCI)と近いので、数年たった今改めて文献調査を行っているのだが、HCIの論文から受ける印象が当時とかなり違っていた。当時はすべての研究を純粋科学的な見方で捉えようとしていたのと比較して、今はもうすこし応用的(ソフトサイエンス的?)な捉え方もできるようになったという違いだと思う。この違いについては、まだ明瞭な説明を持っていないのだが、まぁ端的に言えば数年の間に研究に関して視野が広がったということだ(あまりに端的)。この結論からもう一段階進んで、この広がった視野を持った上で今自分がやっていることについて考えてみる。今は、紆余曲折を経て比較的純粋科学に近い研究分野に舞い戻ってきていて、わりかし現在の研究を楽しめている。そして、やはりHCIやCGはあまり好きじゃなかったなと改めて思ったりもする(まだ十分な自信を持っては言えないが)。上にも書いたように、純粋科学だけが研究じゃないというのはわかってきたつもりなのだが、やはり、最後の最後で、できた成果物をアピーすることが最重要で、検証に重きが置かれないというのが、どうも。。。どうもすっきりしないのです。

 

ああ。書き始めた時考えていたことと全然違うことを書いてしまった。書きたかったのはやっぱりここ数年は不幸にもやりたくないことに従事してしまって、得るのものもあったはあったけど成長しにくい環境で、精神的な苦しさに耐えながら前に進んでいたのは事実なので、自分のスキル不足を過度に責めなくてもいいのかもなということを思ったのでした。最低限、前にちょっとだけ進んできたので十分だろうと。

 

(2018/11/12)


TwitterやらSlackやらevernoteやら、いろんな場所にことあるごとに文章を書く習慣を作ったせいで、このブログを書く機会が減るような気がしたので申し訳程度に何か書き留めておこうと思う。ここのところ生活のほとんどを仕事に割いていて(というのも風邪だった期間が、合計で2週間半ほどもあった)、忙しくも充実しているのだが、日常のスケジュールの中でどうにもコントロールしきれないものが就寝時間である。いつからそうなったのかは、もはや思い出せないのだが、少なくともここ数年寝ることに対して過度のプレッシャーを感じてしまっている。寝ようとすると、いい睡眠をとれるのか、そもそも眠れるのか、が気になってどうにもこうにも眠りにつけない。すごく個人的な問題であるかのように説明したが、別にこれは典型的な不眠症の症状なのかもしれない(なんとなく思っていたことが、文章にすると表面化するので良い)。

 

というわけでたった今、「不眠症 ガイドライン」で検索してみたが、薬に拠る対処が主だった。こんばんは睡眠薬飲もうかなぁ。。

(2018/11/7)


ブログの形式を変えました。最新の記事が一番上に来るように。毎度毎度記事としてポストしても、このようになるっぽいですが、TwitterFacebookでシェアするボタンが出てきて見苦しいので無しで。文字数の上限もあるっぽいですが、とりあえず無くなるまではここに書いて行きます。今風邪です。早く仕事を軌道に乗せたいところですが、とりあえず落ち着いて行きます。

(2018/10/31)


他人は気にせず目の前のことを淡々とやっていくのが一番というのは間違いないはずなんだが、他人と共同でプロジェクトを進めている以上他人との関係の中で自分の貢献を作っていかなければ行かないので、ちょっと不安になったりもする。自分がいくらベストを尽くしていたとしても他人と比較して貢献が少ないようであれば、プロジェクトという観点では問題なわけで。なので、請け負えるだけの量のタスクを請け負うことと、そしてもし自分のキャパを超えて請け負ってしまった過剰な期待はしないことが重要かなと思った。請け負う仕事のさじ加減も長期的に身についていくものなので、長期的に落ち着いて行くべきだと、改めて。すぐ焦ってしまうのは良くない癖だな。

(2018/10/26)


mid-termは終わりました。出来栄えはあんまり良くない気はしているが、考える時間はそれなりに取った気はしているし、あれが実力なんだろうとのんきに考えている。昨日から結城先生の真似をして作業の開始と終了を活動記録として書くようにしてみたところ、なかなか落ち着いて作業ができて心地いい。文字にしてみると一日にできる作業というものは格も少ないのかと失望してしまうが、何かを長期的にするというのは本来このように冴えない日々を繰り返すこと以外の何物でもないので(そうではないはずだという根拠のない願望に負け続け、華やかで「生産的な」日々を夢想し続けてきたが。)これでいいのだと思う。朝から働いて、午後に少しだけ授業、そして夜には映画を見る。ん?こうしてみると充実した日々にも見えるな。

(2018/10/24)


ここ数日変に具合がわるい。最初はくしゃみが頻繁に出てアレルギーの類かなと思っていたが、それがだんだん寒気やだるさに変わって来て、4日間ほど休んでなお体調が変わらない。明日に構内の病院にいく予定だが、それ以上に乱択アルゴリズムのtake-home mid-termを無事終えられるかが気がかり。

(2018/10/21)


"仕事がうまくいったときのよろこびも、考えてみれば、純粋な真理追究のよろこびではなかったようだ。そこには功名心という雑念が入っている。また、本当に学問自身にうち込んで、真理自体を知ることに幸福を見出すのなら、誰のやった発見でも、それを学ぶことに無上のよろこびを感じるはずである。ところが実際はそうなっていない。"

これ、はっとした。


ミーティング前に進捗をまとめている。成果物という観点ではなく、学んだことという観点で振り返ると、意外に進捗があって嬉しい。最低限の理解をしてくれる人(教授)向けに説明の準備をするというこの時間は研究の見通しを良くしてくれて、気分がすっきりする。目に見えないが、進捗はきっと出ているので、もう少ししっかり研究に取り組んでいこう。(週の半ばくらいに自分なりのまとめを作る時間があってもいいのかもしれないな?)

(2018/10/16)


ここ数日不安でダウンしていた。ダウンしているときはいつも、もうダメかと思っているが、毎回なんとか持ち直して、いまは研究できている(文面から受ける印象ほど大したことにはなっていない)。(まだここでは公表できないが、)先週、嬉しいニュースもあった。自信をもって自分の仕事と言える論文がようやく学会誌に採択されそうなのだ。客観的に見ると大した仕事には見えないかもしれないが、自分としては大きな意味がある仕事だと思っている。もう少し頑張っていける気がする。

(2018/10/15)


今寝る前で別に文章を書く気もなかったのだけど、書きたいと思った時にだけ文章を書くってのも、単調になる要因なのではと思ったからなんとなく書いている。open-endを目指すって意味でもこれは良いのでは。ここでの「良い」の感覚、書いてる今ですら薄ぼんやりとしか認識できていないので、あとから読み返した時や、ましてや他の誰かが読んだ時、なんのことやらわからないんでしょうな。とにかく何でも書く。それが良い。でもやっぱり、文章という表現にして外に出すという行為はどんな形であっても、ある程度頭をクリアにする必要があるんだなとこの記事を書いてて思った(数行で心境が変わっていく文章ってのも珍しいな)。たぶん今の頭と精神の状態だと本来の自分ならTwitterに10文字くらいの無意味なつぶやきを流して、TLを眺めるふりをしながら、来るはずもない世界からのレスキュー(気休め?)を待って時間を過ごすんだろうな。それとくらべると随分マシなことをしてるじゃないか、ある程度の量の文章を書くってのは。どうでも良いけど最近読んだエッセイに「結婚した?仕事何してる?どこに住んでる?などというお決まりな質問で自分をカテゴライズされるから同窓会の空気は嫌」的なこと(適切な引用ができずごめんなさい。)と書いてあったのを読んでいて、自分のコミュニケーション能力というものに関してかなり懐疑的になってきた。急にコミュニケーションの話をしだした、と思うかもしれないがこれも一応まとまった文章を書くこと(型にはめる)こととそれ以外についての比較という意味で繋がっている。

(2018/10/10)


 

 今、夜の10時になるところで、本当は明日締め切りの課題に取り組まなければいけないんだが、例によって机に向かってから作業を始めるまでの「めんどくさいなぁ、でもやらなきゃなー」の時間に突入している。今まではその時間TwitterやらFacebookやらInstagramやらをみるという安易な過ごし方で先延ばし(最近学部に留学している女の子に教えてもらったのだがこれにピタリとあてはまる”procrastination”という単語が英語圏にはあるらしい。)をしていたが、そこから得られるものの中身のなさに気付いた(数カ月ぶり数十回目)ので、もう少し実りのあることをしようと努めている。今日はこれを読んでいた。これの感想も書きたいのだが、流石に仕事をしなきゃと思うので、また今度。と言ってる間にLINEのメッセージが来てるので、次はそれに返事して、その次こそ仕事していてくれ。たのむ。


最初の記事から何ヶ月経ったんだろうか、最初の記事で思いっきりself-contained な内容を目指してしまったため(少なくとも書こうとした、そうなっているかは不明)次の記事を書くのに腰が重くなってしまった。そもそもひとつのweb articleとしてまとめ上げられるようなアイデアが一人の人間の中にまとまることなど、数年単位でしか起こらないのだ。という独自の言説を言い訳にした上で、このブログでself-containedな内容を目指すことはやめて、open-endな記事を書くことにする。ようはまとまりのないアイデアをまとまりのないまま、徒然なるままに、書くだけの場所にする。理想的にはこのブログ 。(徒然なるままなのに面白い!)そもそも徒然なるままに書くのにはてなブログの形式(1つのトピックに1つの記事)は向いてない気もするが、とりあえずしばらくは。なんならここの記事にどんどん内容を足していこうかな。ひとつの記事の文字数に上限はあるんだろうか。。。

(2018/10/9)